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コラム『青畳の記憶』~OBからの寄稿文~

第12回: ドイツへの先輩方から現役学生諸君の訪問
三輪 博巳(昭和53年卒)
三輪 博巳(昭和53年卒)
三輪 博巳(昭和53年卒)
阪急阪神EXPRESS(フランクフルト空港)

 昭和53年度卒業で、宮崎は延岡高校出身の三輪博巳です。
平成2年度卒業の川地君より、バトンタッチとなりました。

 大学を出て、もう33年がアッという間に過ぎてしまいましたが、これまで年に一度か二度ドイツから帰国したおりには、早大道場にて現役学生と、幸いにも今日まで一緒に汗を流させてもらっています。
何度も畳を背負ってばかりですが、次の日から青痣と何とも言えない疲労感を伴う筋肉痛で、そのままドイツへ飛んで舞い戻るのが常です。
4〜5日はこの老体には、何とも辛い日々が続く訳ですけれども、反面何処か30年前の学生時代の感覚を楽しんでいるところがありますね。
 卒業して2年後、1981〜89年(S55〜63年)の8年間、このドイツで柔道の指導をする事が出来ました。当時柔道の指導でギリシャから福岡に戻って来ていた同級生の内田壮平君と奥さんのヘリーンさんの紹介で、何から何まで全面協力してもらい、お陰様で金融都市フランクフルトの個人道場にてトレーナー業をスタートしました。
 このプライベート道場のブール氏のもとで3年間、そして南ドイツはバイエルン州のアーベンスベルクにて、ドイツ一般一部リーグのチームを指導しながら5年間、外国語の得意でない自分、ましてやドイツ語には苦労しました。山あり谷ありのまさに一人で、悪戦苦闘しながら休み無しのトレーナー業でしたけれども、すばらしい経験をさせてもらいました。
1986年(S60年)には、総勢30名のアーベンスベルクの選手と共に、日本へ飛び早大道場を皮切りに、日本柔道家との稽古を通して、2週間ほど交流を深めることもさせてもらいました。

 こんな中、まさか夢の中まで、外国語を話し始める自分などあり得ないと勝手に思い込んでました。が、自分がドイツ語をしゃべるのは、同級生が果てはお袋がドイツ語・英語で話しかけてくるわけです。周りがドイツ人・ドイツ語ばかりで、益々日本語に飢えていた時に、同級生等がフランクフルトにやって来てくれました。
 日本から届く手紙や電話(当時はまだまだ国際電話が高い頃でした。500円のコインが2〜3分でポンポンとパチンコ台のように無くなっていくのですから)は、有難いものでしたが、早大道場にて汗を流した先輩・同級生・後輩等々とわざわざドイツまで自分を訪ねてくれて、これほど嬉しかった事はありませんでした。

 82年(S57年)まずは、同級生の土屋(浅見)君と、既にジュネーブにて現スイス柔道会長のオックスネール氏のところで、柔道指導をしていた大平君たちが夏の盛りに訪ねてきてくれ、あの学生時代に戻ったように、おおいに冷やかされましたが、次の日にはもうフランスへ向けての列車に乗り、中央駅でお別れでしたけれども自分自身大いに勇気づけられました。

 87年(S62年)でしたかS62年度卒の三船貴司君が2月でしたか凍てつく真冬に来てくれて、名画名曲「サウンド オブ ミュージック」にて出てくるアルプス山脈をバックにした、あの家族が住んでいたお城の舞台が、オーストリアのザルツブルクの近くでしたので、ツルツルと滑る路面にハラハラしながらも、地図帳とガイドブックを頼りに探し当て、三船君ここぞとしっかりと思い出の写真を撮りまくっていました。
 同年は、S49年卒の林克明先輩&弟さんのS55年卒の林達也君ところの、池袋豊島の協栄荘は、先の住人S51年卒の向山徳彦先輩が年末にやって来てくれました。(自分も協栄荘の住人でして、2年間よく先輩との共同生活の日々を思い出しますが、何と当時4畳半一間で月8500円でした。林先輩のお父さんには、誠にお世話になりました。)アーベンスベルクから当時まだ東西ドイツの頃で、一路西ベルリンへ向かいました。HOF(ホーフ)から東ドイツのアウトバーンに入ると、自分の中古車はカチカチの氷の路面で、アッと思ったら溝に落ち(東ドイツには高速道路でもガードレールが無いのが普通・・・)、先輩の怪力をお借りして戻し上げてもらい、550kmを徐行運転であれは何とも17〜18時間で厳戒(?)のベルリンへの到着でした。東ベルリンへは、有名でした「チャーリー チェック ポイント」から東ベルリンに入り、大戦で片足の不自由なタクシー運転手に、当時一日観光(国境での持ち込む金額の規制)で一人20マルクでしたが、東ドイツマルクに両替して(当時あちら側では大金)の二人分殆どを運転手に渡して、戦前の荒廃の姿をあちらこちらに残す町並みを見ながら、よもや近いうちにドイツ統一が成されるとは考えにも及ばないところでしたけれども、丸一日をかけての市内観光でした。

 88年(S63年)だったと思いますが、この川地君と当時マネージャーをしていた同級生と二人で大学夏休み中に飛んで来ました。早大柔道部に所属しませんでしたが、同理工学部を出られ、当時欧州宇宙開発センターにおられて、自分が個人指導してました物理博士の奥行男さんから二人の旅費を戴いたわけでした。世界中におられるのですね、本当に柔道が好きな方々が。こうして、後輩たちをこんな形で、有難くも柔道の普及に応援して下さるのですから。さて折角旅行カバンに積んで来た柔道着もありましたが、二人の胸中余り詮索はしませんでしたけれど・・・まずはドイツ人柔道家と汗を流し、本場の生ビールを味わい、ミュンヘンの夜の部では、何やら赤いネオンの下を彷徨したのでは無かったでしょうか?
 記憶が相前後するかも知れませんが、当時日独シムルタン文化交流の一環で、柔道交流も盛んに行われており、北海道選抜の高校柔道選手を引率して来ておられたS48年卒の主将でした吉澤正伸先輩のもとへ、南のバイエルンから北ドイツはケルンの方へ、500kmを急遽駆けつけてお会いしたことがありました。

 89年(S64年)にドイツ人の女房をもらい、一時福岡は内田君のもとへ帰国してましたが、92年(H3年)には戻り、フランクフルト空港公団に勤め、日本航空にて15年間、そして現在阪急阪神EXPRESSにて同じく空港内で仕事を続けております。

 早大道場でずーっと年に一度か二度でしたが、現役学生の皆さんと稽古していた事が繋がりとなり、また交流が始まりました。
 H16年度卒だと思いますが主将でした谷口基君が卒業前に、柔道着を片手に、イタリア・スペインからドイツに入って来ました。稽古で汗を流して、家の応接間で暖炉に薪を焼べながら、日本でいう地ビールに近いでしょうかドイツ本場のバイスビア(Weisbier)の0.5L入るジョッキを片手に、何度も「乾杯・プロスト!Prost!」とジョッキを突き合せながら、二人で何杯も空けては、語り合いました。
 直ぐ翌年でしたか、H17年度卒の主将は猪ノ口克司朗君そして主務の浅賀伸陽君の二人も、2月の寒いなか訪ねて来てくれました。それ以来、自分が日本に戻ると、仕事で忙しいにも
かかわらず、大阪でまた東京でと会ってくれます。

ドイツへの先輩方から現役学生諸君の訪問02

ドイツへの先輩方から現役学生諸君の訪問03


 同期の土屋(浅見)君には、本当にこんなに離れていてもお世話になっているのですが、新婚旅行で2度目、そして3度目は日独姉妹都市交流で6年前でしたか、埼玉は入間市の青少年少女柔道家を率いて来ていて、ミュンヘンの南方に位置するボルフラーツハウゼン市にお手伝いに行きました。
 市民との最後のお別れパーティーでは、日本から録音してきたCDに、自分の学生時代の余興18番「大きな栗の木の下で・・・」をバックミュージックに、皆の前で30年振り位に踊らされました。いやーっ同級生と言っても、何を考えているのか解りませんね。共に汗を流し毎日稽古をし、心を許した仲間でも、しかし何が飛び出してくるかわかりません。
 現役諸君もこれはひとつ親友の選び方に「用心!用心!!」。

 さて最後になりますが、自分が新入生で入った時に、小野沢先生は28歳のバリバリでよく鍛えられました。高校では立ち技しかできなかった自分、全く寝技は弱いものですからお陰様で2枚の餃子耳になりましたが。先生の一本の時間では終わらない寝技乱取り稽古の積み重ねと、先生のあの広く分厚い胸の下で足掻き・もがきの4年間でもありました。
 現在、先生が日本柔道の大役を任されておられるように、世界中を柔道大会を中心に飛び回っておられ、フランクフルトは欧州のハブ空港でもあり先生とはよくお会いする機会がありました。
 あれは86年(S60年)でしたか、旧ソビエト連邦の柔道国際大会からハンガリーはブタペストでしたかここも大会を終え、一路日本への帰国でしたが、旧東側の難しさを知っておられる様に、予定していた飛行機で飛べず、空港内にて立ち往生でした。アーベンスベルクにいた時分のところへ突如電話が入り、慌ててフランクフルトへ走り、先ずは西側に出る事を判断された先生、そして日本代表選手の方々をお迎えしました。夏の旅行シーズンでしたけれども、ルフトハンザ航空にて幸運にも切符が取れ、翌日空港までお見送りし、無事帰国の途へつかれました。

 それほどの来客ではありませんけれども、この様にして早大柔道部での4年間の稽古のお陰で、自分自身が勉強させられ色々な交流をさせてもらっている訳です。

 「百聞は一見に如かず」と言いますが、このグル―バルな時代には情報も大事ですが、「一見」とは体験することで、頭にインプットしたものを正に柔道の如く体自身が覚える二度目の徹底した再記憶に、この諺はあると自分は思います。
 現役生に是非お勧めします。どうですか一度また別の角度から自身で見て試みるのは。柔道は勿論ですけれど、画面で知る世界ではなく、別の国へ飛び、自分自身の足で立ち、直にその国の空気に触れ、不自由な言葉を何とか操り、共に稽古で汗を流したり、意外な遭遇に驚かされたり、文化・習慣の相違から大失敗したりの、それこそ笑ったり泣いたりの様々な実体験をすることです。
 きっと世界中に出ておられる先輩方、皆さん現役学生の来訪を心待ちにしておられると思いますよ。
今はまるで隣の町にでも行く様に、自分で何から何まで企画できます。後は電話なりE-mailなりで、先輩方の懐へ飛び込むだけです。
ヨーロッパそしてドイツに興味のある人、何もしてあげられない一先輩にすぎないですが、皆さんの到来をお待ちしています。

 さて、この辺で次の方へバトンタッチしたいと思います。
S55年卒の現早稲田中・高等学校の川田一洋先生にお願いしたいと思います。左組みの柔らかい入りからの鋭く切れる大内刈りの技師でしたけれども、自分等が4年生の時の2年後輩、我々沢山いた同級生に色々と笑ったり泣かされたりの思い出が、数限りなくあるのではないでしょうか?そこで川田先生の「青畳の思い出」期待しています。どうぞよろしくお願い申し上げます。

毎日稽古に励んでいる現役学生諸君には、これからも益々の日々の精進と、それに相応するような青畳の上での健闘をお祈り致します。


【思い出の一枚】
ドイツへの先輩方から現役学生諸君の訪問01
 S49年夏季東北遠征(茨城-宮城-秋田)のひとコマです。右側前列から4年生主将の新井先輩、3年の現立命館監督の春日先生、本人、3年の斎藤先輩、同期の秋元君、同梶原君、残念ながら亡くなられましたが2年の荒木寛孝先輩、そして左側同期の東浦君です。
 この年は茨城国体で、東京を発ったと思ったら、それこそ強化選手との茹だるような暑さの中の稽古からスタートしました。再周知の秋田県警では、全日本柔道選手権或いは世界選手権を獲られた夏井先生の隅落とし(空気投げ)のご説明・ご指導を頂きました。

                                                Deutschland , Kahl am Main   三輪 博巳

[2012年05月15日]