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コラム『青畳の記憶』~OBからの寄稿文~

第4回: ふるさと
塩谷耕吾(平成13年卒)
塩谷耕吾(平成13年卒)
塩谷耕吾(平成13年卒)
報知新聞社

 思えば、無口だった学生時代。酒を飲んで、酔いが回ったころに口元はほどけ、饒舌になった。口をついたのは柔道の話ばかり。同期や後輩に延々と話しかけていた。
 店は決まっていた。馬場にあるその店の主は小川さん。年齢は知らないが、初見からたいそう年季が入った親爺だった。頑固で無口で無愛想。店名はぐっとベタで「ふるさと」。カウンターしかない店内は平日は人も少なく、横開きの扉を開けると、猫が2、3匹、椅子でくつろいでいた。
 適当に飲み、食い、語る。応援団、剣道部、他の体育会の連中のたまり場でもあった。各々の雑多な会話が充満する。知らん顔して料理をつくっていた親爺は、しかし時折り口を出して会話に加わった。みんな、小川さんに話を聞いてもらいに来ていた。
 とかく、足繁く通うになったのは3年秋、副将に就任してから。同期や後輩と行くときもあれば、一人の時もある。内容は覚えていないが、部の運営についてよく話していた。小川が話に入ってきて、「うるせえ、親爺!」なんてくってかかったこともあった。
 我々の代は厳しくて、4年春の東京学生の団体戦では、2部に転落させてしまった。野球部やラグビー部、陸上部ら、人気、実力のある他部に対する引け目も多分にあった。それでも小川さんがいつもかけてくれた言葉がある。「歴史ある早稲田の柔道部の副将をやっているんだから、並大抵の事じゃないんだよ。みんな、悩みながらやってるよ。塩谷さん、たいしたもんなんだよ」―。副将としては失態続き。劣等感の固まりのような私に、この言葉はストンと腑には落ちなかった。だけど、体育会を、我が柔道部を、こんなにもリスペクトしてくる人がこの街にはいる。それがうれしかった。
 1年時から、道路拡張のあおりで、店がなくなるかもしれないという噂は絶えなかったが、それでも小川さんはそこにいた。卒業し、就職してからも顔を出した。入社半年で酒でしくじり、休職を食った時も、「誰も驚かないよ」一言だった。道場から歩いて10分。早稲田通りを下り、明治通りとの交差点を右に折れたところ。ここが、私のよりどころだった。そこにずっと光っていた「ふるさと」の看板はしかし、今はない。09年6月、小川さんが胃ガンで他界した。

ふるさと03

 一報はバスケ部の同期から来た。応援団に確認し、剣道部と連絡を取り合った。前年から体調を崩して入院したという話は聞いていたが、まさかの報。通夜、告別式は応援団が仕切ってくれた。私は義父の不幸と重なり、出席できず。不義理ばかりを重ねた思いが募る。ありえないような安い勘定で酒を飲ませてもらい、へべれけになり、悪態もついた。就職して恩返ししようにも、ついに余分な金は受け取ってもらえなかった。
 入院前の08年4月、女性と2人で店を訪れた。「塩谷さんが女の子連れてくるなんて、初めてじゃない」ニヤニヤと笑われた。半年後に結婚する今の嫁さんだった。2人でビールと日本酒8合飲んで、3千円。それが、最後だった。あんな、青臭い会話をできる所は、もうない。31歳にもなっても自分は相変わらずガキのままで、惑うことばかりだ。それでも、小川さん。こんなぼくにも、娘ができたんですよ。
ふるさと01

ふるさと02


※私からの指名は、同期の主将の金辻真人(平成13年卒)です。よく2人で「ふるさと」に行ったものでした。現役時代は60キロ級の名手も、今や体重90キロ近く。激しい変貌を遂げています。

現役柔道部員のみなさんへ「胸のうちのマグマは、練習で発散するのが基本です。それでもまだ消費しきれないエネルギーが残っているのであれば、馬場や東伏見の街を飲み歩いてください。柔道にいそしむ学生を歓待し、尊重してくれる人たちがいっぱいいるはずです」

[2010年08月24日]