思えば、無口だった学生時代。酒を飲んで、酔いが回ったころに口元はほどけ、饒舌になった。口をついたのは柔道の話ばかり。同期や後輩に延々と話しかけていた。
店は決まっていた。馬場にあるその店の主は小川さん。年齢は知らないが、初見からたいそう年季が入った親爺だった。頑固で無口で無愛想。店名はぐっとベタで「ふるさと」。カウンターしかない店内は平日は人も少なく、横開きの扉を開けると、猫が2、3匹、椅子でくつろいでいた。
適当に飲み、食い、語る。応援団、剣道部、他の体育会の連中のたまり場でもあった。各々の雑多な会話が充満する。知らん顔して料理をつくっていた親爺は、しかし時折り口を出して会話に加わった。みんな、小川さんに話を聞いてもらいに来ていた。
とかく、足繁く通うになったのは3年秋、副将に就任してから。同期や後輩と行くときもあれば、一人の時もある。内容は覚えていないが、部の運営についてよく話していた。小川が話に入ってきて、「うるせえ、親爺!」なんてくってかかったこともあった。
我々の代は厳しくて、4年春の東京学生の団体戦では、2部に転落させてしまった。野球部やラグビー部、陸上部ら、人気、実力のある他部に対する引け目も多分にあった。それでも小川さんがいつもかけてくれた言葉がある。「歴史ある早稲田の柔道部の副将をやっているんだから、並大抵の事じゃないんだよ。みんな、悩みながらやってるよ。塩谷さん、たいしたもんなんだよ」―。副将としては失態続き。劣等感の固まりのような私に、この言葉はストンと腑には落ちなかった。だけど、体育会を、我が柔道部を、こんなにもリスペクトしてくる人がこの街にはいる。それがうれしかった。
1年時から、道路拡張のあおりで、店がなくなるかもしれないという噂は絶えなかったが、それでも小川さんはそこにいた。卒業し、就職してからも顔を出した。入社半年で酒でしくじり、休職を食った時も、「誰も驚かないよ」一言だった。道場から歩いて10分。早稲田通りを下り、明治通りとの交差点を右に折れたところ。ここが、私のよりどころだった。そこにずっと光っていた「ふるさと」の看板はしかし、今はない。09年6月、小川さんが胃ガンで他界した。