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コラム『青畳の記憶』~OBからの寄稿文~

第9回: 感謝、そして今できること
森 忠義(平成元年卒)
森 忠義(平成元年卒)
森 忠義(平成元年卒)
大鵬薬品工業株式会社

平成元年卒業の森です。特技は大澤先生のものまね!
卒業後はほとんどが地方勤務で
3年間は名古屋、11年間、岡崎生活。
あいだに東京勤務が2年ありましたがその後四国に約4年
一昨年に再び東京勤務で現在に至ります。

私たち平成元年卒は卒業した今でも結構まとまりのある年代で、2年に一度の同期旅行など
定期的に連絡を取り合うようにしています。
昨年の夏で7回目だったかな?
福井方面に行き、1つ下の後輩夫婦の川地家(奥様は旧姓西山さん)にも立ち寄らせていただきました。
夜の宴会には身の危険を感じて来なかった川地君(でも昼飯はご馳走さん)、しのぶ婦人、それから川地君のお母上様。その節はお世話になりました!

いくつか学生時代の話をさせていただきます。

ちょうど川地君の名前が出ましたので2年生ごろの話から・・・
ひとつ下の学年はとにかく人数がいなかった。結果としては3人。
途中で何人か入部しそうになったが同期の小泉がいじめたため(?)定着せず、一年目についてはたったの2人。
その翌年に吉村監督の学年が入るまではありがたいことに私たちは道場掃除を2年間させていただきました。
今の柔道部もそうだがやはり人数は大切だ。人数がいれば道場に活気が出ます。
自分たちのころは3年、4年の先輩のおかげで寂しい練習風景になることだけは避けらました。

2年生のときは主将が三浦先輩でとにかく稽古の後のトレーニングをよくやった想い出があります。
早慶戦での勝敗も危ういと言われていたので必死だったのだ。
また当時小野沢先生もいろいろなパワートレーニングを導入し始めた頃で「最後に・・」「ラスト」「本当の最後」
といつまで続くのかわからない状況の中、トレーニングをしたものです。
そのころが自分を含めて同期の連中も皮下脂肪の少ないいちばんきれいな身体をしていたかもしれない。

それから先生・先輩方の登場によってはちょとした緊張感があったものだ。
当時の山崎監督がお越しになったときはこれまた大変でした。
とにかく豪快なのだが練習あとの打ち込みの回数が半端でない。
回数は500回だったり1000回だったり・・・

「1・2・3・・・」30分たってもなかなか終わらない。「今何回だ?」「500回です!」と・・・
本当に1000回できたか疑問だがとにかく終了。
練習後はすいかの差し入れをいただきました。
これも桁違い。「店のすいかを全部買ってこい」といわれて確か同期の鈴木が買いに行ったような気がします。


先輩方との稽古の想い出は数え上げればキリがありませんが
「これが本当の技?」というものを身をもって体験させていただいたことがありました。
先に登場いただいた三浦先輩に稽古をつけていただいていたのですが、
力をいれずに組ませてくれるというのは非常に不気味なものです。
自分も隙を見て「技」を出そうと思っていたのですが、大外刈りで真っ逆さまに頭から落ち一瞬記憶が飛んだのです。
その時は大外刈りだっとこともわかりませんでしたが・・・
その日の朝食に何を食べたかも思い出せないぐらい記憶が途切れ、
泥酔状態以外で記憶をなくしたのはその時だけでした。
さすがは学生3位の実力者、
まるで格の違うその大外刈りをマネをしてみようと思ったのですが、なかなか奥が深く
得意の宴会芸のようなわけにはいきませんでした。
 
少し脱線しますが、
三浦先輩には、その一年上の田辺先輩とともによく新宿に飲み(お下劣)に連れて行っていただきました。
高田馬場の松屋で高級牛肉を食べ腹ごしらえをしたあと、西武新宿線で歌舞伎町へ。
街へ出ると「あそこの二人組行け!」とナンパ命令が下り
当時はたいがい一緒だった高木と一晩で50組ぐらいの女性に声を掛けたこともありました。
ようやくゲットするも人数的にはこちらが4人で相手は2人
新宿中央公園で夜明かしと思い、6人で芝生の上で転がっていたのに
いつのまにか先輩に置いて行かれることも・・・

話はまた柔道に。
高校時代(埼玉県:春日部高校)は比較的短い練習時間で稽古をしてきたのですが、
大学へ来てひとつ驚いたのは合宿の回数でした。
卒業までの数を数えたことがありましたが40回ぐらいあったかな?

毎月の強化合宿中はやはりからだもパンパンできつかったのですが、数少ない楽しみのひとつは飯でした。
今は無くなってしまったが「甘楽」さんという店が合宿中の昼食を担当してくれていました。
人気メニューの「オムソテー」や、がんこな衣で覆われた「鳥唐定食」
ご飯はもちろん「激盛り」
たぶん食欲だけは同期でも1,2を争っていましたので
飯を食うことでなんとか毎回乗り切った気がします。
火曜日が一番きつく、木曜日になると俄然食欲が増してきたものです。
もちろん土曜日で合宿が終わった後はいつも同期で打ち上げにいきましたが、
今の社会人生活ではあのビールの味はもう味わえませんね。

それから私たちの頃はなんと言っても春の館山合宿が大きなイベントでした。
朝トレから始まってなんだかんだ夜まで柔道漬けだったことが懐かしく思い出されます。
朝トレで思い出しましたが中途半端に体重があったため”階段おんぶ”などでは
間違いなく自分より重たい相手がパートナーでした。

ところでこの5月に努めている会社の社内報に私が見開き2ページでインタビュー特集されました。
いろんなエピソードの中で柔道部の頃の写真が欲しいと言われ
最後の館山合宿、安房高柔道場での記念写真を出させていただきました。

感謝、そして今できること01
感謝、そして今できること02

小野沢先生をはじめ写真の中の同期諸君、勝手に写真を出してしまってすみませんでした。
ちなみにこの社内報は大塚ホールディングス全社のもので2万部ぐらい配られております。

 
こうして振り返ると柔道部生活の4年間は本当に貴重な時間です。
まだまだ失敗もゆるされ、じっくり自分と向き合うことができます。
今更ながらあのときもう少し頑張っていたらとか自分をもっと追いつめていたら結果は・・・と思うことはあります。
ただ社会人として仕事をしていてここ一番で”こうすれば成功する”という感覚は、この柔道部時代の失敗の経験が非常に役立っております。

現役学生諸君においては今の生活で「楽しいこと」「くやしいこと」「頑張ったこと」「怠けたこと」あれこれあると思いますが
”因果応報”怠ければそれなりの結果しか出ないことなどしっかりと刻み込むべきです。
勝負の世界にいる中では抵抗があるとは思うけど自分の弱さを認めることは大事で
開き直って認めてしまうと案外道が開けることがあるものです。


最後に昨年より発足したジュニア柔道クラブに中1の娘と小3の息子を連れて参加しておりますが
ここに至って柔道着を着る機会が増えたことは非常によかったなと感じております。
先日道場でお会いしたOBの三野先輩が”なにせ柔道着を着ることが大事”とおっしゃっていたのがとても印象的で
30年以上も寒稽古を続けられておられる先輩ならではのお言葉に重みを感じました。


柔道では指導中にいろいろな事故が起きていることは新聞などでも報じられていますが
初心者の子供達を教える立場になって思うことは、しっかりとした受身、理にかなった技がいかに大切か
ということです。
指導者メンバーには川田先生、山下OB会長、樗澤先輩、宇津木先輩、荒木先輩、若手の青井君、宇野君など
指導がうまく思わず自分が聞き入ってしまうこともあり非常に勉強になります。
2年目に入り、新しい会員も増えましたが子供達の興味が持続するよう手伝いをしたいと思います。

まとまらぬ文章を書きましたが次のバトンはいつも僕ら先輩をたしなめてくれた平成2年卒川地君に回したいと思います。
もちろん奥様しのぶ様にも一筆いただければ幸いです。
感謝、そして今できること03

[2011年05月20日]